第五福竜丸事件とは
第五福竜丸事件とは、
1954年(昭和29年)3月1日に行われた、
アメリカ軍の水爆実験による放射性降下物(死の灰)を、
マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が大量に浴びたという事件です。
この日、アメリカ軍はキャッスル作戦という水爆実験において、
マーシャル諸島のビキニ環礁で、ブラボーというコード名の水爆の実験をしました。
第五福竜丸は、マーシャル諸島近海、
アメリカ軍の設定した危険水域外の爆心から約160kmの地点で、
延縄(はえなわ)漁をしていました。
その時、死の灰が降ってきて、乗組員23名全員が被曝したのです。
死の灰に接触した部分は、2、3日後には火傷していたそうです。
また、帰港するまでに髪の毛が抜け落ちたり、
お腹の調子が悪くなったりもしたそうです。
その後、第五福竜丸は被曝した約2週間後の、
3月14日に焼津港に帰港しました。
2日後の3月16日に検査を受けた際、船体から30m離れたところから、
放射線が検出されました。
そのため、人家から離れた場所へ係留するよう指示が出され、
鉄条網を張って係留されました。
原爆マグロ
第五福竜丸に積まれていたマグロは、
放射能に汚染されているとして廃棄されました。
他の漁船から水揚げされたマグロも放射能の検査をされ、
汚染されたものは
「原爆マグロ」(「水爆マグロ」「放射能マグロ」とも)
呼ばれ、 廃棄されました。
築地の市場でも、放射能検査によって汚染されているとされたマグロは、
築地市場の一角に埋められました。
その場所には、マグロ塚が建てられ、今も残っています。
このように、放射能に汚染された魚(マグロだけでなく)は
廃棄されていましたが、魚を食べる人は激減しました。
築地市場でも「せり」が成り立たなくなるなど、
市場関係者、漁業関係者は大きな打撃を受けました。
第五福竜丸の乗組員の死因は被爆ではない?
水爆実験による被曝から約半年後、
第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが、亡くなられました。
日本の医師団は死因を、放射能症(放射線障害)と発表。
ですが、現在までアメリカは、久保山さんが亡くなったのは、
放射線が直接の原因ではないとしています。
それは、久保山さんの直接の死因は、重度の急性肝機能障害だったからです。
このような重度の肝機能障害は、第五福竜丸の乗組員だけに起こっていて、
同様に被曝したマーシャル諸島の人々には全く起こっていないので、
放射線が原因ではないということです。
それでは、第五福竜丸の乗組員にだけ、
なぜ重度の肝機能障害が起こったのでしょうか。
第五福竜丸の乗組員は、焼津港に帰港すると、
すぐに入院させられて輸血されていました。
当時は、輸血の際に注射針を使いまわしており、
その時に肝炎のウイルスに感染したとも言われています。
ただ、2005年(平成17年)7月には、米公文書の情報公開によって、
アメリカの国家安全保障会議の作戦調整委員会(OCB)が
「第五福竜丸の乗組員の発症の原因は、サンゴの塵の化学的影響とする」
など、 情報操作をしようとしていたことがわかっています。
その公開された公文書は、
「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」
というタイトルの文書です。
1955年(昭和30年)には、アメリカから日本へ200万ドル支払われました。
それは、賠償金ではなく見舞金としてです。
アメリカは、今でも正式に謝罪はしていません。
なぜ第五福竜丸事件が起こったのか
ところで、なぜ第五福竜丸事件のようなことが、起こってしまったのでしょう。
原因の一つには、アメリカ軍が実験に使用する水爆の威力を、
低く見積もっていたことがあります。
アメリカ軍は、その威力を4~8Mt(メガトン)と見積もっていて、
それに合わせて危険水域を設定していました。
ですが、実際の威力は、
広島や長崎に落とされた原爆の約1000倍に当たる15Mtで、
深さ73メートルのクレータが出来るほど
だったのです。
それで、アメリカはあとから、危険水域を8倍に拡大しました。
他の原因としては、第五福竜丸だけでなく、海上保安庁や漁港にも、
水爆実験が行われることを知らされていなかったことです。
ところが、1953年(昭和28年)11月には、
アメリカから日本政府へ、水爆実験の事前通知はあったそうなんです。
どうして日本政府は、水爆実験のことを関係各所に知らせなかったのか。
理由はわかりませんが、日本政府はアメリカの水爆実験の情報を握りつぶした、
ということになります。
被爆したのは第五福竜丸だけではない
アメリカは、マーシャル諸島で1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)の間に、
計67回の水爆実験を行いました。
日本政府の調査では、856隻の被曝が判明しています。
被曝者は、2万人を超えると見られています。
厚生労働省は、第五福竜丸以外の漁船では、
船体と漁獲物のみ放射線を測定していて、
乗組員についての記録はないとしていました。
しかし、国家機密を解除されたアメリカの文書から、
乗組員の被曝の記録も、アメリカへ提供していたことが明らかになりました。
それで、外務省に情報公開請求が行われたところ、その記録が見つかりました。
2014年(平成26年)9月19日には、厚生労働省でも見つかった文書が、
初めて開示されました。
第五福竜丸自体は、検査の終わった後、
文部省(現在の文部科学省)が買い上げて、
8月に東京水産大学(現在の東京海洋大学)品川岸壁に移されました。
その後、さらに検査と放射能除去したあと、
東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」に改造され、
1967年(昭和42年)に、廃船となりました。
その後、保存運動が起こり、現在は東京都の夢の島公園の第五福竜丸展示館に、
永久展示されています。
この事件をきっかけとして、反核運動が全国へ広がり、
1955年(昭和30年)8月には第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。
それと、映画「ゴジラ」作製のきっかけともなりました。
水爆実験により被曝した、マーシャル諸島のロンゲラップ島の島民は、
放射能の影響により現在でも帰島できていません。
また、被曝したマーシャル諸島の島民、アメリカ人、
日本漁船の乗組員には、癌や白血病でなくなった方、
現在も苦しんでいる方が大勢います。