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葵祭とは?その由来と祭儀葵祭(あおいまつり)とは、京都市の賀茂社の上社である賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ、通称:上賀茂神社(かみがもじんじゃ))と下社である賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、通称:下鴨神社(しもがもじんじゃ))、両社の例祭です。

もともとは、賀茂祭(かもまつり)と呼ばれていました。

また、京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の南祭(石清水祭(いわしみずさい))に対し、北祭とも言われ、北の祭りと言われてもいました。

平安時代に祭といえば、賀茂祭のことでした。

 

しかし、賀茂祭は応仁の乱(1467~1477年)以降、廃絶しました。

その後、江戸時代1694年(元禄7年)に再興されました。

その祭当日に内裏宸殿(だいりしんでん)の御簾(みす)、御所車(ごしょぐるま)、勅使(ちょくし)、供奉者(ぐぶしゃ)の衣冠(いかん)、牛馬など、全てを葵の葉で飾るようになったことから、「葵祭」と呼ばれるようになりました。

葵祭の飾りに使われている葵は、フタバアオイ(賀茂社では「二葉葵」と記されます)です。

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この葵祭の起源は約1400年前、6世紀の欽明天皇(在位539~571年)のころです。

567年、天候が荒れ日本中が風水害に見舞われたため、五穀が実らず国民は困窮しました。

そこで、賀茂の大神の崇敬者である卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、賀茂の神々の祟り(たたり)であるとでました。

それで、若日子を勅使として、4月の二の酉の日に祭礼を行いました。

馬に鈴をかけ、人は獅子頭をかぶって、駆競(かけくらべ)を行うと、風雨はおさまり、五穀は豊かに実ったとのことです。

これが、葵祭の起こりです。

819年(弘仁10年)には、恒例祭祀(中祀)に準じて行う、国家的行事となりました。

 

そんな葵祭ですが、東京遷都などのため1871年(明治4年)から1883年(明治16年)の間、第二次世界大戦のため1943年(昭和18年)から1952年(昭和27年)の間は、行列が中止されていました。

明治17年から、葵祭、石清水祭、奈良県奈良市の春日大社の春日祭(かすがのまつり、かすがさい)は三勅祭とされ、厳粛に祭儀が行われることになりました。

葵祭の祭日も、5月15日に定められました。

 

現在、葵祭で行われている祭儀には、次のようなものがあります。

まずは、本来の意味では祭のメインではないのですが、一番の見所とされているのが行列です。

これは、路頭の儀と呼ばれるもので、検非違使(けびいし)、内蔵使(くらつかい)、山城使(やましろつかい)、牛車(ぎっしゃ)、風流傘(ふりゅうがさ)、斎王代(さいおうだい)など、平安貴族の姿で行われます。

総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2基、輿1台の行列が、京都御所を出発し、下鴨神社へ、さらに上賀茂神社まで、約8キロの道のりをねり歩きます。

行列が、下鴨神社、上賀茂神社のそれぞれに到着した時には、本来の祭のメインである社頭の儀が執り行われます。

これは、社頭(社殿の前)で行われる儀式で、勅使が御祭文(ごさいもん)を奏上して、御幣物(ごへいもつ)を奉納します。

そして、神馬の牽き回し、「東遊(あずまあそび)」の舞の奉納があります。

 

その他、葵祭に関連した神事として、次のようなさまざまな前儀が行われています。

5月1日 競馬会足汰式(くらべうまえあいぞろえしき) 上賀茂神社

5月3日 流鏑馬(やぶさめ)神事 下鴨神社

5月4日 斎王代・女人列御祓神事 上賀茂神社と下鴨神社が年ごとに交代

5月5日 歩射(ぶしゃ)神事 下鴨神社
競馬会神事(くらべうまえしんじ) 上賀茂神社

5月12日 御蔭祭(みかげまつり) 下鴨神社

 

前儀を含めると、葵祭はけっこう長い期間行われていますね。

一気に全部見ようとすると大変なのそうなので、年ごとにわけて見に行くのが良いかもしれません。

それでも、1度は見てみたいものです。

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